Thought about system by Hiroyasu Ishikawa

We are uncovering better ways of developing system.

データ中心と文書によるコミュニケーション

MBSEのデータ中心は文書(ドキュメント)を不要とするのだろうか。

データ中心への移行というキーフレーズ

MBSEでよく目にするキーフレーズの1つに、ドキュメントを中心とした成果物からデータを中心とした成果物への移行があるように思う。
参考:
MBSE is Not SysML - Jama Software

そして、データ中心に移行するために様々な入力・編集・表示を行うMBSEツールが必要とされている。そうでなければ、容易に再利用できるデータとならない。

ここで、引っかかる点としてデータ中心に移行したら、将来的にはデータを扱うMBSEツールのみで完結し、文書は不要になるのだろうか、という点である。

データを表現する場としての文書

データを中心に据えながらもそれを、表示する文書は必要である、というのが現時点での私の回答である。

実際、MBSEツールでダイアグラムを作ったとしても、それと類似のプレゼンテーション文書を作ったり、そのダイアグラムを貼りつけたWordの文書を作ったりしている。
データを中心にしながらも、その周りに適宜必要な文書を作成し、補完している感覚である。

例えば、次のようなダイアグラムでデータ(MBSEモデル)を構築したとしても、誰かに説明するために、もう一度同じ構造でアームやドライブの写真や絵を使ったプレゼンテーションを作るというのがパターンである。

プレゼンテーションの視点(ViewPoint)は読み手に依存し、表現が異なる。つまり、読み手に合わせて表現を変えていく必要があるということを示唆している。


(ISO 42010より)

データ中心にしながらドキュメントを整備する

とはいえ、ある区切られたチームとプロセスで必要となる表現がすべてそろうならば、ツールのみで完結することも可能となるのかもしれない。
このある限られた表現セットを再利用可能な形で定義することで、毎回視点から検討しなくても良くなる。
ただ、毎回わずかに視点が異なるから、結局ある程度のフレキシビリティが必要なるところに難しさも生じているように感じる。

結局、データ中心にすることで文書間の整合性が保たれたり、データのみで完結するケースもあるが、文書はコミュニケーションのためにこれからもずっと必要になるのだと考える。